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夏の学校を終えて

 2002年「夏の学校」は一言でまとめれば、参加した子どもが今までで最も多かったことと、それにもかかわらず年齢によってテーマを絞って行ったプログラムが充実したものになった、ということであろう。そして、今まで何となく頼りない存在であった常連中学生の成長が目覚しかった、ということも加えなくてはならないだろう。

 ともかくひとが多かった。しかも、子どもの宿舎として例年用いていた「蚕部屋」は、移動に時間がかかることや、子どもとへの目の届き具合などを考えて、今回は使わないことにした。そのため、研修センターには、60数名の子どもと30名ほどのおとなであふれかえり、これ以上の収容は不可能というレベルであった。

 しかし、それはまた、キララの存在意義がますます明白になってきた証左でもあろう。以前にも言及したと思うが、キララが公教育にとって代わるものだとは、私は考えていない。あれかこれかではなく、子どもや親たちに「あれもこれも」と思ってほしい。子どもが体験する場を制限するのではなく、多様な場を取り込み、子どもたちに脆弱ではない強靭な精神を獲得してもらうことが必要だと考えている。

 かつて子どもたちは家庭・地域・学校という3つの場で育てられた。今、その3つ全てが崩壊しつつある。都会では地域はすでに崩壊してしまった、というほうが正しいだろう。子どもたちはその崩壊の場から脱出しようとしている。脱出場所の多くは、例えば渋谷や原宿辺りで路上にたむろしているように、それはほとんど周囲や他者と関係のない小さな仲間内だけのカプセル形態の場であり、擬似家族を形成しているかのごとくである。そこで獲得する精神は、脆弱さと無謀さが表裏になったものだ。そこは、子どもたちが「育つ」「産まれる」という要素はなく、精神的にも物質的にも「消費する」「消耗する」ことでうずまっている。

 キララは「学校」と称しているが、むしろ「地域」であるといってもいい。キララの教育力は地域の教育力である。「夏の学校」の案内パンフレットに、キララの場は「自然」「農場」「ひと」という3つの場からなっていると記した。それが「地域」である。自然に直接触れつつ、労働・生産・生活・遊び・学びがなされことこそが、子どもたちを育てる地域の力なのだ。もちろん、キララがその力を十二分に発揮しきれているとはいえないであろうが、今回の「夏の学校」を通して、その手応えをいっそう感じられた。

 夏の学校の全体や個々の内容に関しては、この報告書を見ていただきたい。プログラムそのものの完成度を見ると、時間もスタッフの技術もまだまだ不足しているが、しかし、それらが「地域の教育力」を構成する要素として、それぞれが活き活きとしていることが分かっていただけると思う。「地域」としての「学校キララ」の風景がこの報告書を通して浮かび上がり、私たちキララの試みをさらに理解してくださることを願っている。

秋山 眞兄(キララ校長)